メッセージ

ブログから礼拝メッセージをご紹介します

めぐみ教会boxy-diary 牧師の日記

東京・東大和市上北台 カンバーランド長老・ めぐみ教会牧師室より、荒瀬牧彦が発信

めぐみアートフォーラム

2017/09/18

宣伝です。 ぜひおいでください。

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アチャイアさんの意外な言葉

2017/09/18

春ごろから、ガーナ出身の女性、アチャイアさんが礼拝に出ておられます。首都アクラから、また第二の都市クマシからも遠く離れた田舎の村で、農業をしておられたという方ですが、日本人男性と結婚して東京に来られたのです。 近くの都営住宅に越してこられて間もなく、めぐみ教会を発見して来てくださいました。彼女が言うには、看板に描いてあるカンバーランド長老教会のロゴに、長老教会のシンボルともいえるケルト...

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ルーテル教会の礼拝

2017/09/14

もう半月前のことになりますが、年に一度、8月に「よその教会の礼拝に行っていいですよ」という特別な日を頂いています。で、今年も、めぐみ教会の礼拝を長老に任せ、僕は別の教会に行かせてもらいました。 ちょうど一年前はクェーカー(キリスト友会)の沈黙の礼拝を初体験したのでした。その前も聖公会、カトリックなど、いろいろな礼拝伝統を味わってきました。 さて今年はどこへ行くか? 考えるのも既...

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説教要約 – 田園教会

相模原市にあるキリスト教会のホームページです

2017.09.24説教「偽証してはならない」

2017/09/25
旧約聖書 出エジプト記 20章16節 新約聖書 マタイ福音書  5章33~37節 第九戒「隣人に関して偽証して […][続きを見る]

2017.09.17説教「盗んではならない」

2017/09/17
旧約聖書 出エジプト記 20章15節 新約聖書 エフェソ書  4章25節~5章5節 第八戒「盗んではならない。 […][続きを見る]

2017.09.10説教「究極の親孝行」

2017/09/10
旧約聖書 出エジプト記 20章12節 新約聖書 エフェソの信徒への手紙 6章1~4節 第五戒「あなたの父母を敬 […][続きを見る]

聖書が伝える福音のメッセージ

さがみ野教会の礼拝説教や祈祷会の聖書の学びなどを掲載します。 さがみ野教会のホームページはhttp://sagamino.orgです。こちらもぜひご訪問ください。

フィリピの信徒への手紙3:2〜11「キリストの中に見いだされるために」

2017/09/24

昨日、日本中会の伝道フォーラムが開催されました。これからのカンバーランド長老教会の各個教会の宣教のために、お互いを知り、共に祈り、共に同じ福音の御言葉に生かされていることを味わう集会でした。教会には具体的な顔があります。具体的な人間がそこにます。教会堂が建てられている地域社会の特性があり、教会の固有の歴史があります。お互いのために祈るというのは、それぞれ固有の課題のために祈るということです。詩編第56編にこのような言葉があります。「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」神だけが持っていてくださる革袋に、私たちが人知れずに流した涙さえも蓄えられています。神が涙を覚えていてくださるのです。フィリピ2:10には、「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら」と書かれています。「その苦しみにあずかって」という言葉は、直訳すると「彼の苦しみの交わり」と書かれています。キリストの苦しみの交わりです。私たちが苦しむとき、私たちはそこでキリストの苦しみの交わりにあずかります。キリストと苦しみを共有する、いや、キリストが私たちの苦しみを共有してくださいます。教会はキリストの苦しみの交わりです。キリストにあって苦しみを共にするのです。ここにいる具体的な一人の人と、その苦しみを共にするところにキリストの苦しみを共にする交わりが生まれている。その苦しみの交わりである教会の中で、私たちは、自分が一体何者であるのかを発見するのです。私たちは、誰もが、一生懸命に生きています。プライドがあります。それが傷つかないように自分を守ります。パウロは誇り高い人物でした。自分のことをヘブライ人の中のヘブライ人と呼んではばかることがない。実際、そういう人生を生きてきた。それに熱心に信仰に生きてきました。自分はこれで良いと自信を持てた。しかし、自信はしばしば人を傷つけます。苦しみの交わりを疎外します。かつてパウロは信仰の熱心さにおいては教会の迫害者でした。非の打ち所のない行いに生きてきた。でも、私たちを救うのは、そういう自分の正しさや立派さや自分の信念を貫ける強さではないのです。「私たちには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」キリストへの信仰による義というのは、直訳すると、キリストの信仰によって、ということです。私たちがキリストを信じている信仰であるかもしれませんが、キリスト御自身が信じている信仰という意味でもあります。キリストの信仰によって私たちは救われるのです。だから、私たちには自分の立派さや強さは必要ないのです。いや、それどころかパウロはそれらを塵芥だと言い切りました。あってもなくても良いのではなくて、いらないゴミだというのです。キリストの内にいる者と認められるために。私たちは、神から、キリストの中で自分を発見して頂いたのです。私たちはキリストに包まれて、キリストの中に生きている。私たちは自分がどういう生き方をしてこられたかということで突っ張ったりいじけたりするのではなく、キリストの中に包まれていることで自分を確かめることができます。キリストの十字架が私たちを覆ってくださいます。だから、私たちは苦しみの交わりとして、隣人の痛みを共に負うことができるのです。苦しみの交わりこそ、私たちの喜びです。
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詩編第87編「信仰者でなければ見えないもの」

2017/09/21

この詩編を一読した印象を多くの方に伺いたい。人によって印象が異なると想像するからだ。傲慢な響きを感じる人もいるのではないだろうか。地上を支配し君臨する王のような印象を受けなくもない。しかし、恐らくこの詩編の背景は捕囚後の悲惨な時代である。「主は諸国の民を数え、書き記される。この都で生まれた者、と」というのは目の前の現実に逆らう。信仰の目を開いて見える幻だ。私たちも信仰がなければ見えない幻を描こう。
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フィリピの信徒への手紙3:12〜21「我らの本国は天にあり」

2017/09/17
8月の終わりに日本中会の仕事で東日本大震災の被災地に伺いました。今回は石巻市を中心に動きましたが、最終日に、さがみ野教会の元会員のHさんがおられる多賀城市へ行くことができました。ご自宅がきれいに改装され、最近のご様子を伺うことができました。リビングに、今日のこの召天者記念礼拝でもお名前を挙げて覚えるご主人のMさんの遺影が飾ってありました。私は何気なく、ああMさんのお顔だと眺めていましたが、Hさんからその写真の物語を聞いて自分がなんとうっかりしていたことかと恥じました。Hさんのお宅はあの日、私の背よりも高い津波が押し寄せ、家の中をめちゃくちゃにしていったのです。ほとんどのものが失われました。家族の思い出や写真も・・・。数日後、家の片付けに来た息子さんが泥の中からお父様の遺影を見つけ出したのだそうです。写真は大切です。お墓も、大切です。その存在は私たちに生きることを問いかけます。愛する人の生や死は遺された私たちの生き方を問います。この一年で、二件の葬儀がありました。2月にはNさんの葬儀がありました。ボーイスカウトの指導を長くされた方です。私も小学生の頃から入っていたので、その意味でも親しい思いを抱いていました。ご家族からお話を伺い、Nさんのスカウト活動には、亡くなった息子さんの存在が欠かせないのだと私は思いました。こういう文章を残しておられます。「人は誰かに奉仕するために生まれてきたものである。人から奪うためでなく、与えるために生まれたものである。どうしたら人に奉仕できるか、どうしたら、人に喜びを与えることができるかを、常に考えよう。人を喜ばせることのできる人こそ、ほんとうの喜びを知っている人ということができよう。」人間として経験する中でももっとも悲しい出来事を経験された方です。その方が、人に喜びを与えることを考えようとおっしゃったのは、重い言葉だと思います。Nさんの存在も、息子さんの存在も、私たちに何かを語りかけてはいないでしょうか。また、今月Iさんの葬儀も行われたばかりです。Iさんの91年間の人生をご家族に伺い、生まれてから亡くなるまで、ずっと神様に担われてきた方だったのだと感じ入りました。1943年に横浜英和女学校を卒業されています。ご家族にも英和女学校を出たとおっしゃっていました。しかし、実は1939年に学校の名前は成美と改められていたそうです。英和の「英」が敵国名だったから。しかし、戦後ずいぶん経ってから卒業生たちの強い要望もあって「英和」と名前を戻しました。Iさんも英和という名を愛していたにちがいない。Iさんはそこではっきりとした信仰教育を受けておられました。なかなか受洗には至りませんでしたが、ついに2004年にさがみ野教会で受洗。神に自分をお委ねしたいとおっしゃっています。今日の御言葉の18節には、パウロの情熱と愛がほとばしる言葉が記されています。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」キリストの十字架に敵対するというのは、自分で自分を救おうとする生き方のことです。そうしたら、傲慢になるか卑屈になるかしかない。いずれにしてもキリストの十字架などいらないということになる。しかし、十字架のキリストが私たちを救ってくださいます。だから、私たちは神のもの、天国人です。天の国の国民として、今、この日本での生き方を定めていくのです。   [続きを見る]