メッセージ

ブログから礼拝メッセージをご紹介します

めぐみ教会boxy-diary 牧師の日記

東京・東大和市上北台 カンバーランド長老・ めぐみ教会牧師室より、荒瀬牧彦が発信

説教要旨「慰めの子バルナバ」

2017/07/23

2017年7月9日めぐみ教会礼拝説教 「慰めの子バルナバ」  荒瀬牧彦牧師 使徒言行録4章32‐36節  彼の本名はヨセフ。教会に加わってからバルナバと呼ばれるようになった。言語学的にはバルナバがどういう意味かは明らかではないらしい。使徒言行録の著者は、「慰めの子という意味」だと注釈をつけている。つまり、教会の人々は、バルナバが与えてくれる慰めゆえに、そういう綽名で呼んでいたという...

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香港の中学生

2017/07/19

7月初めに、香港からの中学生2名が我が家に二泊していきました。 7月2日の主日礼拝には二人とも制服を着て出席。 彼らを通して、カンバーランド長老キリスト教会香港中会が設置・運営しているヤオダオ・セカンダリー・スクール――中級学校とでも訳すべきか、日本の中学・高校にあたる6年制の学校です――の様子を、いろいろと知ることができました。 まず、ヤオダオ(Yao Dao)ってど...

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遅すぎたと言わないために

2017/07/12

日本キリスト教団出版局が発行している『信徒の友』の8月号が、今日手許に届きました。 8月号といえば、毎年、平和をテーマにしている同誌ですが、今年の特集タイトルは「遅すぎたと言わないために」。 ドキリとさせられます。 巻頭の原稿は、宮田光雄先生のお書きになった「今、ニーメラーを読むということ」。 マルチン・ニーメラーは、ドイツの牧師で、告白教会の創設メンバーの一人として...

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説教要約 – 田園教会

相模原市にあるキリスト教会のホームページです

2017.07.23説教「いかなる像も、造ってはならない」

2017/07/24
旧約聖書 出エジプト記20章 4~ 6節 新約聖書 ローマ書 1章18~32節 第二戒「あなたはいかなる像も、 […][続きを見る]

2017.07.13説教 「ほかに神があってはならない」

2017/07/16
旧約聖書 出エジプト記20章 3節 新約聖書 マルコ福音書12章28~34節 第一戒「あなたには、わたしをおい […][続きを見る]

2017.07.09説教「節制の実を結ぼう」

2017/07/09
旧約聖書 箴    言 16章32節 新約聖書 マルコ福音書  1章29~39節 「霊の結ぶ実は愛であり、喜び […][続きを見る]

聖書が伝える福音のメッセージ

さがみ野教会の礼拝説教や祈祷会の聖書の学びなどを掲載します。 さがみ野教会のホームページはhttp://sagamino.orgです。こちらもぜひご訪問ください。

詩編第78編「負の歴史から目を離さずに」

2017/07/20
先祖が語り伝える「わたしの民」の歴史、出エジプト後の40年を回顧する。すぐ指摘するのは先祖が「頑なな反抗の世代」だったこと。かつての西独の大統領フォン・ヴァイツゼッカーを思い起こす。「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。」ドイツの敗戦40年を覚える演説の一節だ。神への反逆を重ねる歴史からどうやって救われるのか。詩編は王ダビデを喜ぶ。我らはダビデの家から出た真の王イエスにより頼むのだ。
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ローマの信徒への手紙10:5〜13「神を信じる者は失望しない」

2017/07/16
「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです」という言葉があります。この「区別」という言葉を他の翻訳では「差別」と訳していました。ユダヤ人、ギリシア人だけではありません。私たちはあの人はふさわしい、あの人はダメといろいろな差別をします。あの人はユダヤ人、ギリシア人、この人は日本人、米国人、中国人、台湾人・・・と選別します。今から2年ほど前、コロンビアで開催されたカンバーランド長老教会の総会に出席したときのことです。当時も今も、米国社会の大きな問題は不法移民問題です。そのことが議場で取り上げられていました。彼らを教会は受け入れるべきなのか、と。若者も含めて、議場では白熱したやりとりが交わされていました。最終的に、「不法」移民という行政の言葉によって分類するのは止めよう、私たちは誰であっても受け入れようということになりました。米国社会にあってキリスト者として生きる彼らの判断を誇らしく思いました。神の前で私たちは一体何者なのかと問うたとき、あらゆる区別や差別は相対的なものに過ぎなくなります。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。これが福音です。区別がないから私たちも救われたのです。米国では昨年の選挙で移民にあまり寛容ではない主張をした人が大統領に選ばれました。今、私たちの米国にいる姉妹教会はどう考えているのでしょうか。きっと同じ確信に生き、隣人に福音を宣べ伝えていることでしょう。福音に生きる者はときに社会の価値観と違うことを語り出します。「主を信じる者は、誰も失望することがない」と書いてあります。この「失望」という言葉は、他の翻訳を見ると「辱めを受ける」となっています。主イエスを信じて恥をかくことはない、と言うのです。なぜ?主イエスは私たちを裏切ることが決してないからです。そうは言っても、日々の思い煩いがあるし、祈っても聞かれないことがあります。福音が生む摩擦もあるのです。そういうことを神さまは気にも留めず、自分のことなんて忘れてしまっているのではないか?「『心の中で「だれが天に上るか」と言ってはならない。』これは、キリストを引き下ろすことに他なりません。また、『「だれが底なしの淵に下るか」と言ってもならない。』これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。」聖書はそう言います。自分みたいな人間のことを神は覚えていないとか、誰も自分の重いこころは分かってくれないとか、私たちは考えてしまう。しかし、主イエスはそんな私のために天にも上り、陰府にも降ってくださいました。キリストは私たちを裏切らず、私たちのことを恥ずかしいと思われず、私たちを御自分の兄弟だと公言してくださいます。そこには、何の差別も区別もないのです。何人であっても、病気の人も健康な人も、障がい者も健常者も、どんな人のことも私たちがこころから差別せずに共にキリストの下さる救いのメッセージを共に喜べるなら、それは神の真珠のような宝です。真珠は貝に小さな核が入り込むことで生まれます。私たちの真珠を作る「核」は「イエスは主である」という告白です。これは私たちが生み出した告白ではなく、新約の時代から教会が受け継いできた共同の告白です。この告白が教会をつくる。私たちもその一員です。共に主を呼び求めましょう。イエスの復活を告げる福音を共に喜びましょう。   [続きを見る]

詩編第77編「思い起こせ、神の救いの御業を」

2017/07/13
神に向かって声をあげている。夜中の祈りだ。「あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます。」眠られぬ夜に不安や心配事が心を駆け巡る。眠れないことも恐ろしく、朝が来ることもまた恐ろしい。私は主に突き放されたのか。主の右の御手は変わってしまった。しかし、この信仰者は神の御業を思い起こす。「あなたの道は海の中にあり、あなたの通られる道は大水の中にある。」だからこそ、神は私の思いを越えた救いを起こされると信頼する。
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