メッセージ

ブログから礼拝メッセージをご紹介します

めぐみ教会boxy-diary 牧師の日記

東京・東大和市上北台 カンバーランド長老・ めぐみ教会牧師室より、荒瀬牧彦が発信

説教要旨「神さまのお名前を知っていますか」

2017/11/21

2017年11月12日 めぐみ教会礼拝説教 「神さまのお名前を知っていますか」 荒瀬牧彦牧師 出エジプト記6章2-13節 「わたしは主(ヤハウェ)である」。  今日の個所では、この宣言が三回繰り返されている。ヤハウェという名前は、「わたしはあってある者」という神の自己開示と深い関係がある(3章)。「わたしは確かにいる」、「わたしはあなたと共にある」という神の決意が、ヤハウェという...

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ちょうど一年前

2017/11/14

ちょうど一年前の11月14日、僕ら夫婦は奥多摩霊園のKMさん墓前で祈りをささげた後、奥多摩・鳩ノ巣渓谷あたりを散策したのだったな、と写真によって思い出しました。 下の写真に写っている「お肉カフェ」でおいしい豚肉料理を食べたんだっけ。あれが一年前か・・・・ たった一年前とは言え、まったく予想していなかったことも含め、いろいろなことがあったんだなと思います。 変化を恐れるのでな...

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説教要旨「カインは顔を伏せた」

2017/11/14

2017年11月5日 めぐみ教会礼拝説教 「カインは顔を伏せた」 荒瀬牧彦牧師 創世記4章1-10節  なんということだ、なぜか弟だけが神に祝福されている!  牧羊をしている弟のアベル。その名がヘベル(息、虚しさ)に由来する、自分より力が劣っていて、影の薄い存在であるはずの弟が、今は自分より成功しているではないか。同じように主への捧げ物をしたはずなのに!  怒る兄の名カインは、...

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説教要約 – 田園教会

相模原市にあるキリスト教会のホームページです

2017.11.19説教「真実な平和を求めて」

2017/11/19
旧約聖書 エレミヤ書  8章 4~13節 新約聖書 使徒言行録 22章30節~23章10節 千人隊長は、問題解 […][続きを見る]

2017.11.12説教「母の祈り、子の祈り」子ども祝福式礼拝

2017/11/12
聖書 サムエル記上 3章1~10節 昔、イスラエルにハンナという名前の女の人がいました。ハンナには、とても悲し […][続きを見る]

2017.11.05説教「わたしは生まれながら」

2017/11/05
旧約聖書 コヘレトの言葉  4章13~16節 新約聖書 使徒言行録 22章22~29節 静かにパウロの弁明を聞 […][続きを見る]

聖書が伝える福音のメッセージ

さがみ野教会の礼拝説教や祈祷会の聖書の学びなどを掲載します。 さがみ野教会のホームページはhttp://sagamino.orgです。こちらもぜひご訪問ください。

詩編第93編「主こそ王」

2017/11/02
主は確かだ。大地よりも、海よりも。主の御座は固く据えられている。主こそ王。私たちにとって本当に確かだと思っているものは、一体何だろうか?大水の轟きよりも力強く海に砕ける波、それよりも神は力強い。実際に、私たちはそのような生活をしているのだろうか?大水に恐れをなしているのではないか。そう問われる思いになった。「主の定めは確か」と詩人は告白する。つまり、聖書の御言葉に耳を傾けることこそ、この信仰の急所だ。

しゅ
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マタイによる福音書4:12-17「新しい時代の幕開け」

2017/10/29
カズオ・イシグロさんの小説『遠い山なみの光』を読みました。悦子という今は英国に生きている女性の回想記です。朝鮮戦争の頃、悦子は長崎にいて、前夫の子を妊娠していた。その夏に悦子は万里子という10才くらいの娘を持つ佐知子という女性と知り合った。佐知子にはアメリカ人のボーイフレンドがいて、彼が自分をアメリカに連れて行ってくれることを夢見ており、子育てにも集中できず、現実を直視することができなかった。この小説にはたくさんの世代間ギャップが登場する。佐知子と万里子。悦子の夫とその父親。父親と元教え子。悦子と娘たち。人と人とのぎくしゃくした関係、そして当時の長崎に色濃く残る原爆の記憶。全体として非常に暗い色彩で物語は進んでいく。悦子が佐知子を思い出したのは、現在の自分の親子関係と重ねるところがあったからだ。実はあの頃妊娠していた娘景子は、英国になじめずに自殺をし、そのことでもう一人の娘ニキが家に帰省して母を慰めるために側にいたのだ。時代を隔て、二組のわかり合えない母と子がいる。なぜ、この暗い小説のタイトルは『遠い山なみの光』だったのでしょう?私は、これはほのかな希望を示すタイトルなのではないかと思います。この物語の最後は娘ニキを見送る悦子の笑顔で締めくくられています。最も辛い時に、互いに齟齬がありながらも寄り添ってくれるニキの存在が、悦子の遠い山なみの光だったのではないかと思うのです。私たちには後悔することがあり、悔いても悔やみきれなくて、顔を上げられないこともあります。自分の罪深さに震えるしかないのです。ローマの信徒への手紙7:7-25を私が初めて読んだのは学生の時でした。衝撃的な言葉でした。「わたしは何と惨めな人間なのでしょう。」自分の罪に言葉を失い、その惨めさを本気で悲しんでいます。苦しんでいます。これを書いたパウロという人の真剣さにたじろぎました。そして、よく分かりました。私も、自分の罪深さに呻きました。神さまのみもとへ帰ろうともせず、隣人を愛することもできない自分の身勝手さ。善を行いたいのに、そうすることができない。ルターはこのような聖書の言葉を真剣に読み、聖書の言葉に従って生きていました。聖書が言うとおりに愛と正義をもって生きた。真剣に生きようとすればするほど、苦しみは増した。自分の罪深さがよりはっきりと見えたからです。私たちの光、私たちの希望は一体どこにあるのでしょう?一体だれが私たちのために寄り添ってくれるのでしょうか?イエス・キリストこそが私たちに寄り添い、私たちを救ってくださったと聖書は伝えます。では、私たちは一体どこでその救いを味わうことができるのか?それは、教会です。教会の仲間たちと共に生き、共に祈り、共に御言葉に聞くことで、私たちはキリストと出会うのです。教会は過ちを犯すこともあります。ルターの時代の贖宥状(免罪符)などは代表的なものでしょう。真剣さを欠いた悔い改めです。お金や儀式で済ませようとする。ルターは訴えます。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めなさい・・・』と言われた時、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである。」毎日、神さまの御前で真剣に悔い改めようと呼びかけます。私には希望がないけれど、キリストには希望がある。キリストは私たちの光だから。毎日罪を犯してもこの方は毎日赦してくださる。主の御前に私たちの心を献げよう、と。  [続きを見る]

詩編第92編「主に感謝を献げるのは、楽しい」

2017/10/26

1節を見ると、安息日の賛歌だとある。主の日の礼拝のための讃美歌だ。そう思うとますます心が躍る。私たちも同じ思いを持って神を賛美している。礼拝すること、賛美することは楽しい。私たちが喜んでいるのは神の御手の業。大切なのは12節だ。「悪人が私に逆らって立つのをこの耳で聞いているときにも」礼拝をすることを止めない。神の御手の業を信じ続けている。子どもも白髪の人も、共に主の言葉に聞き、主を賛美している。
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